2016/07/26

あなたは、ただ見守る

元記事:「同一化」とは、どういう意味ですか?


私が言っていることのすべては、見守ることは正しく、見守らないことは間違っている、ということだ。
私はそれを、本当に単純化した――「油断なくありなさい」。

もし欲望が通り過ぎるなら、そうさせるがいい――それはあなたの知ったことではない。もし怒りが通り過ぎるなら、そうさせるがいい。干渉するあなたは誰な のか? なぜあなたは、それほどマインドに同一化するのか? 「私は貪欲だ......私は怒っている」と、なぜあなたは考え始めるのか? 怒りの思考が通り過ぎているだけだ。通り過ぎさせるがいい――あなたは、ただ見守る。

古い物語がある......町の外に出かけていた男が帰ってみると、自分の家が燃えているのを発見した。それは町で最も美しい家のひとつで、彼はその家を 愛していた。多くの者がその家に2倍のお金を払う用意があったが、彼は決してどんな値段にも同意しなかった。そして今、目の前で、家は燃えている。何千人 もの人びとが集まっているが、何もするすべがなかった。

何かを運び出したくても何も救えないほど、火は広がってしまっていた。だから、彼はとても悲しくなった。そこへ彼の息子が走りより、耳元で囁いた――「心 配しないで下さい。私は昨日、この家を売りました。それも3倍の、とてもよい値で......。 その申し出があまりに良かったので、あなたを待つことさえできませんでした。許して下さい」。

しかし父親は言った、「それはよい、お前がもとの値の3倍で売ったというのなら」。それから父親もまた、他の人びとと共に、立会人になった。ほんの一瞬 前、彼は立会人ではなく、同一化していた。同じ家、同じ火事、すべては同じだ――しかし今、彼は心配していない。彼は、他の皆のようにただ楽しんでいる。

それから、2番目の息子が走って来て、父親に言った、「何をしているんですか? 笑っているなんて――家が燃えているというのに?」
父親は言った、「知らないのか? 兄が家を売ったのを」
息子は言った、「彼は売ることについて話しはしましたが、まだ何も契約されていません。今、その男は買うつもりはないでしょう」
再び、すべては変わる。消えていた涙は、また父親の目に戻って来た。もはや彼の笑顔はそこにはなく、心臓は速く打っている。立会人は去った。彼は再び同一化している。

それから、3番目の息子がやって来て言った、「その男は言ったことに責任を持つ男です。私は今、彼のもとから来ました。彼は言いました、『家が燃えたか、 燃えてないかは問題ではない。それは私の家だ。そして私は話した金額を支払うつもりだ。家が火事になることは、あなたも知らなければ、私も知らなかったの だから』」
再び、父親は立会人だ。もはやそこに同一化はない。実際、何も変わってはいない――ただ、「私は所有者だ。私はともかく家と同一化している」とい う単なる考えが、すべてを変えてしまう。次の瞬間、彼は感じる――「私は同一化していない。他の誰かがそれを買い、私にはまったく関係ない。家は燃えれば いいさ」 。

マインドを見守るというこの単純な方法は、あなたは少しもそれとは関係がないということだ......。思考の 大部分は、あなたのものではなく、両親や、先生や、友達や、本や、映画や、テレビや、新聞からのものだ。いくつの思考があなた自身のものか、ちょっと数え てごらん。すると驚くだろう、ただのひとつの思考も、あなた自身のものではない。すべては他の源から来ていて、すべては借り物だ――他の人によってあなた に投げ捨てられたにせよ、愚かにもあなた自身が自分に落としたにせよ、何ひとつあなたのものではない。

マインドはそこにあり、コンピューターのように機能する――文字通り、バイオコンピューターだ。あなたはコンピューターには同一化しないだろう。もしコン ピューターが熱くなっても、あなたは熱くならない。もしコンピューターが怒りだし、卑猥な言葉でシグナルを与えはじめても、あなたは心配しないだろう。あ なたは何が間違っているのか、どこに問題があるのかわかる。でも、あなたは超然としたままだ。

ほんの小さなコツだ......。私はそれを方法とさえ呼べない。なぜならそれは、重い感じにさせるからだ――私はコツと呼ぶ。ただそれをすることによ り、ある日突然、あなたはそれができる。何度もあなたは失敗するだろう――それを心配することはない......何の損失もない、それは自然だ。しかし、 ただそれをすることで、ある日それが実際に起こる。

ひとたびそれが起こったら、ひとたび、たとえ一瞬でも観照人になったら、どのように観照人――遠く離れた丘の上のものみ――になるか、今やあなたは知って いる。そして、マインドのすべては暗い谷底深くにあり、あなたはそれについては何もしない。マインドに関するもっとも奇妙なことは、もしあなたが観照人に なると、それは消え始めるということだ。ちょうど光が暗闇を追いやるように、油断のない気づきは、マインドと、その思考と、それに付随するものすべてを分散させてしまう。

だから、瞑想とは単に、油断なく醒め、気づいていることだ。するとそれは、あらわになる――瞑想は発明とは少しも関係ない。それは何も発明しない。それは、そこにあるものを単に発見するだけだ。

そして、何がそこにある? あなたが内に入ると、途方もなく美しく、とても静かで、光に満ち溢れ、芳香に溢れた、無限の虚空を見つける。あなたはその中へ入った――神の王国へと。私の言葉で言えば、あなたは神聖であるものの中へと入った。

そして、ひとたびあなたがこのスペースに入ったら、そこから出たとき、まったく新しい人物、新しい人間になっている。今あなたは、自分の本来の顔を持って いる。すべての仮面は消えた。あなたは同じ世界に住んでも、同じ方法ではない。あなたは同じ人びとのなかにいても、同じ態度ではなく、同じ接し方ではな い。あなたは水に浮かぶ蓮のように生きる――水の中にあっても、水にはまったく触れられずに。


Osho: From Unconsciousness to Consciousness, #20

2016/07/25

生こそ究極の価値

OSHO:聖なる祝福ーーそして、人は生をそう心得るべきなのだ。
それは測り知れない価値を持った贈り物であり、
人はそれを無駄にすべきではない。
それは成長し、在るための大いなる機会であって、
人はただ押し流さているべきではない。

一銭も払わずにそれを手に入れたために、われわれはそれ無価値だと思い込んでいる。
まるで、それがたいした意味のないものであるかのように生きて行く。

われわれはごくつまらないものごとに、より多くの注意を払う。
大きな家、お金、地位、みんなからの尊敬ーー。

ところがわれわれは、けっして生と、その本質的価値について考えようとしない。
ほかのすべては、生に比べればほんの取るに足らないものでしかない。
だから、最大の祝福はもうすでに起こっているのだ。
生きているということによって、人はもうすでに神から受け容れられるのだ。
もうすでに大変な贈り物をもらっている。
生きているということによって、
あなたはもうすでに<全体>から愛されているのだ。
だからこそあなたは在る。
さもなければあなたなどいなかっただろう。

<全体>は、あなたがいることを望んでいる。
<全体>は、あなたの存在を祝っている。
<全体>は、あなたがいるということを喜んでいるのだ。
だから、絶対に何かを生以上のものとして考えてはならない。
ーーほかのあらゆるものは、生以下にすぎないのだ。
生こそ究極の価値なのだ。
あらゆるものは、生のためになら犠牲にされ得る。

しかし、生はいかなるもののためにも犠牲になどされ得ない。
人びとは無価値なものごとのために生を犠牲にすることを教え込まれてきた。
お金のために、自分の生を犠牲にする。
尊敬のために自分の生を犠牲にする。
名誉のために自分の生を犠牲にする。
政治のために、キリスト教のために、ヒンズー教のために、
いわゆる宗教のために自分の生を犠牲にするーー。
人びとはびた一文のために生を犠牲にすることを教え込まれてきた。
何が何でもとにかく自分の人生を犠牲にしろーー。

しかし生こそ究極の価値なのだ。
あらゆるのもは生の犠牲にされ得る。
が、生は何ものの犠牲にもされ得ない。
あらゆるものは生の犠牲にされ得る。
が、生は何ものの犠牲にもされ得ない。
なぜならば、生こそ神だからだ。