2016/10/27

あなたを今ここに 連れて来るための技法 | OSHO

よくないのは、
自分の行為に
こだわることだ。
それは往々にして、
真の問題から
逃れる策略であり、
方便だ。

たとえば、
暴力的な人間がいるとする。
彼はどうにかして、
非暴力的になろうとするだろう....。
非暴力的になれば、
宗教的になれると思って.....。
非暴力的になれば、
神に近づけると思って。
また残虐な人間は、
どうにかして
慈悲深くなろうとするだろう。

たとえ
そうしたところで
何も変わらない。
本人は同じままだ。
彼の慈悲には、
残虐さがつきまとう。
それは余計に危険だ。
彼の非暴力には、
暴力がつきまとう。
その暴力はさらに微妙になる。
彼は暴力的に非暴力となる。
その非暴力には、
暴力のあらゆる狂気がある。
また彼はその慈悲を通じ、
残虐を行う。

慈悲によって人が殺される。
人々はそうして殺されてきた。
宗教戦争というものが
数多く存在している。
そうした戦争は
慈悲の心をもって行なわれる。

人を殺すにしても、
じつに慈悲深く、
じつに非暴力的にやる。
愛の心をもって人を殺す。

というのも、
殺すのも当人のためだからだ。
相手を殺すのも、
それが当人のためになるから。
当人にとって助けとなるからだ。

自分の行為を変えたところで、
行為を変えようとする努力は、
じつは
根本的な変化を避けるための
方便だったりする。

根本的な変化のためには、
まず自分が存在することだ。
自分の存在について、
もっと気づきを深め、
意識的になる。
そうして初めて、
在ることが現れる。

あなたは
けっして自分を感じない。
ときに感じることはあっても、
それは他人を通じてだ.....。
興奮とか刺激とか反発を通じてだ。
誰かほかの人間が必要だ。
ほかの人間を通じて、
あなたは自分を感じる。

これは不条理だ。

ひとりでいて興奮もなく、
鏡となる人間が存在しないと、
あなたは眠りに落ちる。
退屈する。
けっして自分を感じない。
在るということがない。
あなたは不在のうちに生きる。

この不在であることは
非宗教的だ。
自己の存在に
満たされるということ.....。
自己の存在の光に
満たされるということ。
それは宗教的だ。

だからこれが
基本的に重要な点だ。

私はあなたの行為を
重視しない。
あなたが何をするかは
どうでもいい。

私が重視するのは、
あなたが何かということだ....。
不在か実在か、
気づいているか
気づいていないか....。

これから
観ていく技法は、
あなたをもっと
存在させるため、
あなたを今ここに
連れて来るためにある。

あなたが
自己を感じるためには、
他人かあるいは過去が必要だ。
過去を通じて、
過去の記憶を通じて、
あなたは
自分というものを感じる。

あるいは未来が必要だ。
あなたは未来に
自分の夢を投影する.....。
自分の理想を、
未来の生を、
モクシャ(解脱)を投影する。

だから
自分の存在を感じるためには、
過去の記憶とか、
未来の投影とか、
他人が必要だ。

けっして
自分だけでは満たされない。
これこそが病気だ。
自分だけで充分でない人間には、
何物も充分ではない。

ひとたび
自分だけで満たされたら、
そこに勝利がある。
葛藤は終わった。
もはや苦悩は存在しない。
引き返すことのない地点が
やって来る。

この点を超えると、
永遠の至福がある。
この点以前には、
苦悩がつきものだ。

でも
その苦悩のすべては、
奇妙なことだが、
自分の行ないに由来している。

これはまさに奇跡だ。

あなたは
自分の苦悩を作り出す。
ほかの誰でもない。

もしほかの誰かが
作り出すのなら、
それを超えるのは難しい。
もし世界が
それを作り出すのなら、
あなたにいったい
何ができるだろう。

でも実際のところ、
あなたには何かができる。
「何かができる」という事実は、
その苦悩を作り出しているのは、
他人ではないということだ。

それは自分自身の悪夢だ。

そして
その基本的な要素は
以下のとおりだ。

第一に、
あなたは
「自分は存在する」
と考えている。

「自分は存在する」
と思い込んでいる。

それは
たんなる思い込みだ。

あなたは、
けっして
自己に直面したことがない。
けっして
自己に面と向かったことがない。
けっして
自己に出会ったことがない....。
出会いというものは
あったためしがない。

たんに「自分は存在する」と
思い込んでいるだけだ。

まず
この思い込みを捨て去る。

自分は
まだ存在しないということを
よく自覚する。

こうした
偽りの思い込みがあったら、
あなたはけっして変容できない。

この偽りの思い込みによって、
あなたの生は偽りになる。

グルジェフは、
かつて弟子たちに
よく言ったものだ。
「何をすべきか
 私に尋ねてはならない。
 あなたには何もできない。
 何かを行なうためには、
 まず第一にあなたが必要だ。
 だがあなたはいない。
 だったら
 誰がするというのか。
 いくら何かをしようと考えても、
 あなたには何もできない。」

こうした技法の目的は、
あなたを助けること。
あなたを連れ戻すこと。
自己に出会える状況を
もたらすことにある。

いろいろなものを
破壊する必要がある....。
間違っているものすべて、
偽りなるものすべてを、
「真」が生じる前に、
まず必要なのは、
「偽」が消え去ること、
「偽」がやむことだ。

「自分はいる」という観念は偽りだ。

「自分は魂だ。
 アートマンだ。
 ブラフマンだ。」
という観念は偽りだ。

とは言っても、
実際に
そうでないというわけではない。

その観念が
偽りだということだ。

グルジェフはいつも
「あなたの中に魂はない」と言っていた。
あらゆる伝統に反して
彼はこう語り続けた。
「人間に魂はない、
 魂とはたんにひとつの可能性だ。
 可能だというだけで、
 今あるとはかぎらない。
 それは達成するものだ。
 あなたはたんにその種子だ。」

たしかにそのとおりだ。
その可能性はある。
その潜在性はある。
でもまだ現実ではない。

ところが私たちは、
いつもギータや
ウパニシャッドや
聖書を読んでは、
自分は魂だと思い込む。

つまり、
種子が自分のことを
樹だと考える。
樹はそこに隠されていて、
まだ顕れていない。

だから、
よくこころえておくことだ.....
ことによると、
自分はいつまでも
種子のままかもしれない。
種子として死ぬかもしれない.....。

樹が自分で
出現することはない.....。
樹が自分で
芽生えることはない。

まずはそのために、
何かを意識的に行なうことだ。
意識を通じて初めて、
それは成長する。

Osho - The VIigyana Bhairava Tantra


2014年10月26日 ·
Prem Sheel さんのFBより